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伏見憲明『新宿二丁目』生成の秘密/machida_syujiが選ぶ3冊2019(2)
評価:
伏見 憲明
¥ 902
(2019-06-14)
コメント:40代以上のオカマで、新宿2丁目に出入りして長い方は、読んでると街路が目に浮かぶようなレポートです。

ジェローム・ポーレン
¥ 2,860
コメント:教科書っぽいなと拒否感ありましたけど、(あと図書館で借りにくい(゜.゜))手に取ってみようと思います。

 昨日書いた記事についてですが、協賛者として取り上げられた著名人たちが、1人をのぞいて全員未承諾だったこと、社民党京都府連も許可なく名前を掲載されたことを、今日の毎日新聞、京都新聞などが報じています。

 京都市民、声をあげて嘘つき候補 門川大作にこそ、NOを突き付けてください。

 

千葉雅也『デッドライン』/フランス現代思想によるセクマイ腑分け小説/machida_syujiが選ぶ3冊2019(1)

 さて、昨年読んだ本で紹介したい本を3冊、とりあげる恒例企画第2弾です。

 北丸雄二さん(薔薇族かBADIにも連載を持っていたアメリカ在住のジャーナリスト)が、荻上チキさんの『session22』で『LGBTヒストリーブック』を紹介しているのをRADIKOで聞きながら、この稿を書いています。なかなか興味深い。

 最近の若い世代はカムアしてる人も増えて、いいことだなとは思うけれど、私自身はLGBTSがほんとに社会に受け入れられている、なんて今も思っていない。でも、10年前、20年前、30年前、ほんの新しいLGBTQ解放運動の歴史の延長線上に我々の今があるのだと改めて痛感します。そして、そういう歴史を知り、LGBTQのアイデンティティに、どうあれ、それぞれがプライドを肉付けしていく作業が、すべてのセクシャルマイノリティの地位を底上げすることにつながるのだと思います。

 

 で、LGBTQの歴史!なんて大上段な話ではなく、新宿二丁目の歴史ってのも予想以上に興味深かったのです。

伏見憲明『新宿二丁目』(新潮選書)

 世界最大のゲイタウン新宿2丁目はどのように生まれたのか。その萌芽は江戸時代にさかのぼる。

 新宿の発祥は江戸時代の宿場町。1698年(元禄11)浅草の商人 高松喜兵衛らの請願に基づいて、「内藤新宿」という宿場が置かれたのが始まり。宿場と言っても、当時の宿場は品川宿、板橋宿、千住宿のいずれも一大遊興地で、吉原のみに認められていた公娼地以外にそれぞれの宿場で飯盛り女や茶屋女を私娼として置いていたらしい。

 高松喜兵衛が幕府に金5600両を上納し許可を得て、今の四谷三丁目交差点から新宿3丁目の交差点くらいの1キロ余りに738軒の「風俗」がひしめいて活況を呈していました。

 しかし、風紀粛清により、1718年の廃宿、その54年後に田沼意次のもとで再開され、戦後の赤線時代まで続く。1958年の売春防止法施行まで、新宿2丁目は「女を男に売る街」だったのです。

*ちなみにWIKIによると、江戸時代、男を売る陰間茶屋は日本橋人形町や湯島天神周辺に集積されていたらしい。

1949年(昭和24)の新宿二丁目「買売春地図」 [性社会史研究(遊廓・赤線・街娼)](三橋順子)

 

 ちなみに、日本最初のゲイバーは昭和初期に現在の新宿文化センターあたりに開店した「夜曲」或いは「ユーカリ」であったそうだ。興味深いのが少年探偵団でおなじみ(つまり少年性愛傾向が作品に如実に出ている)の江戸川乱歩が、詩人の萩原朔太郎を連れて昭和6年(1931年)にユーカリを訪れていたことが往復書簡から明らかになっている。

 ただ、当時の「ゲイバー」は今の2丁目よりも新宿寄りの新宿3丁目(要町通り)周辺(現在の末広亭周辺)に出店する傾向があった。

 今もまだある1951年の創業の『どん底』というバーの50周年記念に美川憲一が祝辞を寄せていますが、

『どん底』の地下、ゲイバー『ラ・カーブ』にも連れて行ってもらったわ。アラン・ドロンが初来日して、お店を訪れたときは、週刊誌に載ったりしてもう大騒ぎだったみたいよ。  三丁目って所は、あの頃からわりとゲイバーが多くてね、いまでこそ二丁目が、ゲイバーのメッカみたいに言われているけれど、ゲイバーは三丁目の方が先。『ラ・カーブ』と、その近所にあった『蘭屋』、『しれ』は、ゲイバーの走りみたいなものだったのよ。

 当時の街や店の雰囲気を偲ばせる。

 本の中には、三島由紀夫、相良直美、横光利一などの逸話のほかに、「シレー」にジュディ・ガーランドが来店し、そのカウンターの上でダンスのステップを披露したとか、1960年代に乙羽信子が新宿二丁目でスナックのママをやっていた、とか、華やかで隠微な二丁目交遊録的な逸話も盛り込まれています。

 さて、では、いつから、ゲイバーが、新宿3丁目から新宿2丁目に通りを挟んで集積を始めたのでしょうか。

 

 私事だが、初めて新宿を訪れた時、ゲイ雑誌の広告の切り抜きか何かを持参していたにもかかわらず、新宿2丁目にたどり着けませんでした。それは、新宿2丁目と3丁目の間に、巨大な川のように横たわる御苑大通りに阻まれて田舎者にはそこから先に街があるなど思いもよらなかったからです。結局その辺をぐるぐるして、仕方なく、要町通のポルノショップ『カバリエ』で青年写真集だけ買って帰りました。

 

 なんでもあの通りがあんなに無駄に広いのは、1949年の都電が新宿駅前の交通混雑を避ける形で乗り入れて2丁目と3丁目の間に通っていたものが、丸の内線の開通などで廃線となったのち、交通量に見合わない巨大な大通りが残り、結果としてそれが町を分断するような状況になった。そして、それが、新宿2丁目をゲイタウン化するのに一定の役割を果たしたのだという。

 1958年の売春防止法以前は2丁目に青線(黙認売春街)があったことは知られているが、野坂昭如や五木寛之はそれぞれの自伝的小説の中で、その通りを渡って2丁目に向かうことを「結界を超える」とか「三途の川」を渡るという表現で書いている。

 こちらがこの世で、あちらがあの世。

 そういう地勢が、内心に後ろめたさを感じていた主に男性同性愛者が身バレを防ぎつつ楽しむ心理的な防波堤になったのではないかと伏見憲明は分析しています。

 

 さらに、1960年代、今の信濃町駅から明治記念館のあたりに「権田原」という巨大な野外発展場があったらしい。(大昔の薔薇族に藤田龍さんが書いてた記憶がうっすらある。地名のダサさに震撼した)

 それが1964年の東京オリンピックの「風俗浄化」で消滅に追い込まれる過程で、ハッテンバに集うゲイ達の口コミでほど近い新宿2丁目当たりのゲイバーへと人が流れてきたのが、徐々に新宿2丁目が「男の街」に変貌するきっかけだったのではないかと、語られている。

 また、当時から、やはり「差別」を受けていた、LGBTQに対して、もともとが風俗街で「淫風の街」の気を持つ新宿2丁目の地域住民(戦前、お女郎さんの子どもなどと言われて差別を受けてきた歴史をもつ)が、

>その後ろめたさは、ゲイなど性的マイノリティに対して「お互い様」というほど割り切れた感情ではなかったとしても、「仕方ないなあ」というぐらいの諦めになったのではないかと想像できないだろうか。(P122)

と受け入れを容易くする地盤があったのではないかとも書かれていました。

 

 さて、初期ゲイバーたちの店主や、ゲイ雑誌というメディアが発刊される前に、何をきっかけにゲイやクィアたちがこの町に集まったのか、新宿2丁目が世界一のゲイタウンとなるために街を盛り立ててきた2丁目の「偉人」たちなど、とても、こんなブログ記事で紹介しきれないようなトリビアがあふれています。

 2,30年前に新宿通いをした人は、太宗寺近くの古本屋だったり、今はなき、展望レストランを改装したサウナ『スカイジム』だったり、『毛皮のマリー』が上演された『アートシアター新宿文化』など、その固有名詞を聞くだけで往時の街並みが目に浮かぶ方もいるでしょう。

 近年の新宿2丁目は老朽化と、再開発で駐車場が街の何割かを占めるような不愛想な街になりつつあるが、この本を読めば、この町の風情と言うか空気というか、残っていってほしいものだと改めて思いました。

 

 たまには、新宿2丁目に飲みに行きましょうね。

 

新宿2丁目をつぶさないために〜東京都議選アンチ石原の薦め〜(マチダタイムス)

ゲイが殺される!2丁目が潰される!!〜都知事選で石原にNO!〜(マチダタイムス)

ゲイタウン・新宿二丁目は世界的にも特別な街「一般社会での“負け”が勝ち札に転じます」(週刊女性)

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