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「真夜中のパーティ」の意味と背景について〜12年ぶりに阿部力で再演?〜
評価:
青井 陽治,マート・クローリィ
劇書房
コメント:30年前にしては青井さんはがんばったなあと思いました。あとがきもなかなかにゲイフレンドリーで勉強になります。公立図書館に結構あるようなので借りてよんでください。

mayonakaeiga 真夜中のパーティーで振り返るゲイ演劇30年史より

 この芝居(右画像は映画版キャスト)のあらすじについて少し書いておきたい。

  舞台は1960年代後半のNY。
ハロルドという年増のおネエの誕生日を祝うために、マイケルのアパートメントに8人のゲイが集まる。パーティーの前にマイケルの大学時代のガチガチのノンケの友人アランが泣きながら電話をかけてくる。日を改めて会うはずのアランが、パーティの最中、参加者がオカマ丸出しの風情で楽しんでいるところにやってきて、言葉の応酬のあとアランがガチのオカマのエモリーに殴りかかったことから場の空気は一変。突如攻撃的になったマイケルが参加者に誕生日のゲームを提案する。
 今まででいちばん愛した人に電話をかけて「愛している」といえるか競うゲーム。参加者の心に隠したものは暴かれるのか?というお話。

 さて、ここから先はネタバレを含むので見る予定の方はご注意ください。

 芝居を見たあと、原作と映画を借りてきて改めて見直してみて、いくつかのことに気づいたので挙げていきたい。
 まず、この芝居の発表されたのが1968年。ストーンウォール事件の前年。ちょうど映画 MILKの時代に発表され、この芝居自体がアメリカにおけるゲイ解放運動の後押しをしたのだということにまず驚かされる。(1983年の日本版の脚本を手がけた青井陽治さんのシナリオ本の解説に、「切羽詰ったマイノリティへの希求が(15年を経て日本で)「多様化の時代」なんかに落ち着いてしまうのだから 恥ずかしい」という記述がある)そしてそう思ってからみると、この芝居の背景や台詞の意味が俄然違って見えてくるから面白い。

 ひとつめ、「愛してる」の重さについて。
 私たちは非常に安易にこの言葉を使うようになった。男でも女でも、男に対しても女に対しても、「セックスしたい」とか「かわいい」とか、「こんにちは」 とか、それくらいの軽さを愛してるに置き換えても平然としている。だが、当時のアメリカで、男が男に対して「愛してる」ということは、社会的生命を賭して行うようなことだった。

 今、同じようなゲームを日本でやったらさぞ盛り上がらないだろうと思う。
「愛してる」と言うほうも言われるほうも、誰も重さを込めなくなった。ためしに誰かに言ってみればいい。「酔ってるの?」と笑われるか、「はいはい、私も」といなされるか。
 ゲイがノンケに対して恋情を告白することは、すなわち、私はキチガイです、犯罪者です、と通りで叫ぶのと等しかった時代なのだ。愛している人に愛しているといえない時代。そこをまず踏まえないと、この芝居の本質を見落とす。でも、現代の我々にはなかなか伝わらない。

 そして、もう1点、今の携帯全盛時代の若者には、交換手を通し、家族を通し、相手にたどり着くという電話をかける勇気や緊張感なんて理解してもらえないのではないだろうか。なんで、たかだか電話でこの人たち、こんなに緊張してるの?で済まされたら演者たちがかわいそう。というか、そもそも俳優たちがそこを理解して演じているのかが気になった。
 
 劇中、ハンクがその場にいる同居中のパートナー ラリーを横に自分たちのアパートメントの交換手にラリー宛の伝言を残す。「君を・・・愛している」と。
 気でも狂ったのかと、動転するアランにハンクは言う。
「本当に愛しているからだよ。誰に知られても恥ずかしくない」
 
つまり、電話交換手に知られることさえ、社会的な抹殺につながるリスクを負っていたということだ。
 このシーンだけ見ても、愛している人はおろか、自分の家族にも親友にも同僚にも自分の性的志向を打ち明けられずに苦悩していたマイノリティたちに、「自分は自分でいいのだ」という勇気を与え、当時の社会のありように疑問を投げつけた衝撃的な芝居だったのだろう。
 
 主人公のマイケルはやや情緒不安定で、分裂症気味に描かれている。性格温厚に見えて、帰ろうとするアランを頑固に引き止めてゲームに参加させたのはアランのかぶっている仮面にうんざりしたからか。アランをクローゼットから引きずり出してやろうと思ったからか。
 主演の阿部力は熱演したとは思う。俳優なんだから長台詞をすらすら述べるなんてことを評価しちゃいけないんだが、人気若手俳優を舐めてたので、彼がそれなりにおしゃれで内向的で屈折してプライドの高いマイケルをそつなく演じたのは評価できる。

 ただ、 芝居全体について言えば、物足りなさや消化不良を感じる。
 わざわざ小田島恒志で新訳させたそうだが、その割りになんにも目新しさがない。どこの爺さんに翻訳させたんだろうと、思ったら七光り。とても1962年生まれだとは思えない爺ぃな翻訳っぷりにげんなり。大御所の息子だからってこんなとこに引っ張り出すなよ。

 むしろ、青井陽治訳版を手直しして使ったほうがよかったんじゃないか?と思う。
 新訳というからには、「ノンケ」とか「売り専」とか浸透したゲイ用語でも使うのかと思ったらそうでもなく、私が聞き落としたか、役者が言い忘れたか、脚本どおりか、いきなり終盤で「クローゼットクィーンなんだよ!」っていきなり言い切りにされてしまって、んなもん、ノンケに意味がわかるか〜!ゲイでもわからんわ。言い切るなら「隠れオカマなんだよ」で十分。
 突き合せをしたわけではないが、青井訳にも時代背景が難しかっ たり、脚注を読まなきゃすぐには理解できないところがあったりで、脚本段階か演出段階で相当に削除されている台詞がある。ただ、それについても十分に吟味された気がしない。映画を見直し、脚本を読んで、こんなこと言ってたっけ?って思ったところがちょくちょくあった。私の記憶違いなら申し訳ないが、それでも、 大事だと思うところをきちんと観客の心に刻印するのが役者なら、その私が大事なのに抜けてる〜!と思ったところは舞台からは伝わらなかったということなので、なんらかの不足があったのだろう、脚本か、演出か、役者の力量か…。

 翻訳について、細かいところでもっとも違和感があったのは、幼なじみに電話してゲームを終えた黒人のバーナードが、オカマのエモリーがかけようとする電話を止めていう台詞。
「かけるな」
「失うものなんかないもの」
「尊厳。誇り。失くすんだよ、それを」(青井版)

「威厳だよ」
と訳していたこと。
なぜ「プライド」と訳さない?威厳なんて言葉、日常生活で使わん!そもそも漢語は耳馴染みが悪いので舞台向きじゃない。そこに絞ってみてたわけではないけど、その台詞を聞いて、ああ、どっかの呆けたノンケの爺さんが適当に訳したのね!と思ってがっかりしてしまった。この脚本、どうせ英語なんだからゲイの脚本家やライターに、時代の空気を織り込みながらきっちり訳してほしいなあ、などと思った。伏見さんあたりで十分可能だと思う。私だって、超訳ならwもう少しましに訳せる。
 
 演出やキャストについても文句が。
 阿部力については悪くなかったと書いたけど、山崎樹範はミスキャスト。まず、脚本の人物設定では30歳の貴族的なアングロサクソンとあるが、まったく容姿がそぐわない。
 そこで ふと思ったのだが、もともと配役はアランに阿部力、マイケルに山崎樹範だったのが、事務所の力か役者の力量か、配役を替えられたのではないか?
 もともとアランは出番も台詞もそう多くはないのだけど、山崎のアランはただの怒りっぽい若造のちび。内面の葛藤も山よりも高いプライドも感じられず残念。むしろ屈折したマイケルを演じたほうが見せ場があったとおもう。

 また、カウボーイは映画ではもう少し肉感的な男の子がマッチョな胸をボタンはずして見せ付けるように演じているが、中村昌也はただひょろ長いだけ。せめて衣裳で肉感的に見せることもできただろうに、長袖、ぶかぶかのカウボーイシャツじゃ色気も何もない。アバクロあたりであつらえたようにも見えたけど、その場合、丈が短くてもワンサイズ落として着せるのが常道。ゲイ的センスが全く感じられない。
 さらにイマドキの舞台で黒人の顔を黒く塗ってアフロヘアのかつらをかぶらせたのにびっくり。原作に忠実なのかもしれないけどあまりに古臭い。1960年代のアメリカですよというのをセットやメイクでしか表せないなら、演出家にも役者にも脚本の読み込みが足りないと思う。
 更に、エモリーとハロルドに映画版の役者の演技を模倣しようという姿勢があからさまで、なんかちょっと違うんじゃないかなあと思った。今回のキャストにゲイはいないと思う。それは仕方ないんだけど、もっと内面に踏み込んだら違った演じ方があったんじゃないかな。表面的になぞっただけで、寄り添い足りないというのが正直な感想。
 演じやすい役どころだけど、内田君のドナルドは悪くなかった。
 その他、裸がほとんどなかったのはとっても不満\(`ε´)ノ。記憶違いじゃなければ1998年版では大沢君のシャワーシーンがあったと思う。

 でも、10数年を経てようやく再演されたのだから、この機会にいろいろな思いをもって劇場に足を運ぶのはありだと思います。おりしもL&G映画祭と期間がかぶりますが、上演の機会自体が少ない作品です。ぜひご覧ください。多分、当日券あると思います。劇場にお問い合わせを
 
 月曜で上演が終わってしまうので拙速に記事をまとめました。
 来年当たり、キャスト・演出家(!)を替えての再演をお願いしたいけど、私としては阿部力はアランを、マイケルは情緒不安定気味の演技が冴え渡る成宮くんや、年行き過ぎてるけど及川ミッチーあたりはどうかなあなんて思いました。成宮君が30前後になって、主演するといい舞台が期待できるよな気がする。
 お楽しみは劇場へどうぞ。
ということで町田もこれから真夜中のパーティーへと向かいます(^_^;)
皆様よい連休を。

真夜中のパーティWIKI
「真夜中のパーティー」キャストで振り返るゲイ演劇30年〜12年ぶりに阿部力で再演?〜

追記)
1998年版はカウボーイもう少しエロかった気がするんだけど違ったかな。
レザパン、ハーネススタイルみたいな。
アメリカには
Butlers in the Buffという、ヌードメールサービスがあるそうです。
裸のホストやホステスをパーティーに派遣するビジネス。
日本でもやらないかしら?w
私のカウボーイのイメージはこんな感じ。


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コメント
ご無沙汰しています。
映画祭の合間をぬってパルコ劇場へ行って見てきました
概ね同じ感想だったんですが、「マイケルを成宮くんで再演したら?」にはすんごく同意!
今回のキャストでは、ハンク役の中野英樹さんはハマってたなぁと思います。そんで、その相手ラリー役の徳山くんも映画版のイメージとは違ってなかなか頑張ってた気がします。
| ひろぱげ | 2010/07/27 8:52 PM |
お久しぶりです。コメントありがとうございました。
成宮君、売れすぎちゃったから、ここまで降りてくるか?微妙なのが残念ですね。
 ハンクは私も結構いいと思いましたよ。ラリーの徳山君って、顔の印象がAAAの西島君と間違えてました。
2人はがんばってたと思いますが、2階に上がっていくところの演出がだらだらしてて少々不満。私だったら、少し明かりを落として抱き合わせます。別に脱がなくてもいいから顔を寄せて囁きあってるような。

今週末に出演者のトークイベントがあるそうですよ。
興味のある方は公式ブログを確認してください。
http://yaplog.jp/party2010/
| machida_syuji(管理人) | 2010/07/28 1:09 AM |
演出が青木豪さんだから、こんなものでしょう。

青井陽治さんが自分でリメイクすれば、ゲイ好みの色っぽい作品に仕上がったと思うけど・・・。

それにしても、若手の演出家で、BLものではなくて、ゲイもの舞台を演出できる人がいないなぁと感じてます。

映画なら、金田敬さんがなかなか良い映画を撮っていたけど・・・。

どなたか良い人をご存じですか?
| ひかる | 2010/07/30 7:14 AM |
コメありがとうございました。
>どなたか良い人
私もそんなに詳しくないけど
加藤健一事務所辺りは手堅いんじゃないかな。
蜷川さんも面白いの作りそうだけど。

>BLものではなくて、ゲイもの舞台
ここが問題なんですよね。
ゲイものを上演してもターゲットがBL層だという。
興行的には仕方ないのかもしれませんが。
加藤健一事務所をあげたのは、ここの客層はBLターゲットじゃないからです。

| machida_syuji(管理人) | 2010/07/30 2:06 PM |
 2020年、10年を経て、安田顕を主演に再演されるそうです。
 ちょっと見たいなあ。チケットくださーい。
何回も行ってるので、自腹で行くかは微妙。( ̄▽ ̄;A
| machida_syuji(管理人) | 2020/02/24 3:41 PM |
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